私たちはいつも、たくさんの悩みを抱えながら生きています。
ここでは、苦の根源とも言われる煩悩について、詳しくご紹介したいと思います。
煩悩は、英語ではworldly desires(この世の願い)、あるいはworldly passions(この世の情念)と表されます。
煩悩とは、どのような意味なのでしょうか。
煩悩の意味とは?108つもあるの?
煩悩とは、恨みや嫉妬、後悔、怒りなどで、心身を乱し悩ませる心の働きを言います。
細かく分けると108つあると言われています。その中でも、人間の根本煩悩と言われている、六大煩悩(ろくだいぼんのう)があります。
それが、「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見(とん・じん・ち・まん・ぎ・あくけん)」です。
貪(とん):好きなものに対する激しい要求
貪欲、強欲、欲が過ぎることです。あれもこれも欲しいという欲求が抑えられず、ひとり占めしたいと言う気持ち。
謙虚さを失い、おごり高ぶること、必要以上にこびること、心が乱れること、などを指します。
ドラマの悪役で、不正に会社のお金を横領し、そのお金で豪遊するなど、誤った方法で何かを手に入れようとすることです。
一方で、私たちが「こうありたい」「成長したい」と自然に思う気持ちは、煩悩ではありません。
瞋(じん):怒り腹を立てること
自分の心に反するものを怒り恨むことです。
急激に激しく怒る、ねたみ、やきもち、生き物に危害を加えたり、盗むことも含まれます。
不快だと言って、自分でさらに不快感をぶちまけ、周囲をより不快にさせることでもあります。
「瞋(じん)」の文字は「瞋(いか)り」とも読み、”彼は眼を瞋(いか)らせて主人に訴えた”などと使います。
痴(ち):真実が分からない、無知であること
心が闇に覆われて、誤った見方しかできないことです。無明(灯りのない真っ暗な状態)とも言います。ねたみやうらみのことを「愚痴(ぐち)」といいますね。
信じないこと、やって良いこととダメなことの区別がつかない、わがまま、自己弁護に走ったり、常識知らずで自分のことしか考えないことを指します。
これら3つを、人の心を毒する根本的な煩悩として、心の三毒「貪瞋痴(とんじんち)」と言います。
貪欲の「貪(むさぼり)」、感情のコントロールが効かない「瞋(いかり)」、自分勝手な「痴(おろかさ)」を表した言葉です。
慢(まん):他人と比較して思い上がること
自分の未熟さを知らない状態のことです。
我慢強い、という誉め言葉に使われることもありますが、もともと仏教語の我慢は自己の心のおごりのことを指します。
他と自分を比較して他の人より「勝った」と感じる優越感、逆に「負けた」と感じる劣等感。どちらも「慢」です。
疑(ぎ):あれこれ疑うこと
「疑心」とは、うたがい、まどわせる心のことですが、もともと仏教の言葉です。
疑は、煩い悩ませること、真理を疑うことです。
悪見(けん):誤ったものの見方
誤ったものの見方、考えのことです。
色メガネをかけて人を見る、という言葉がありますが、人間の認識は各人の心を色濃く反映したものとして成立しており、かつ、そのことに人がいかに無自覚であるかを教えています。
そのため、誤った考え方(邪見)、偏った極端な考え方、誤った考えを正しいと思いこむこと、などを指します。
ここまでが、六大煩悩(ろくだいぼんのう)と言われています。
六大煩悩(ろくだいぼんのう)とは
「貪(貪り)・瞋(怒り)・癡(愚かさ)」の「心の三毒」に加え、「慢(慢心)・疑(疑い)・悪見(誤った見方)」を含めたもの。
六根とは
なぜ煩悩が108個なのかを説明するために、「六根」とは何かご紹介します。
六根とは、人間に具わっている6つの感覚器官のことです。
身体の「五感」、つまり「見る」「聴く」「嗅ぐ」「味わう」「触れる」に、「意識」という第六感がプラスされたのが六根です。
先ほど紹介した六大煩悩×六根×「現在・過去・未来」で、108個(6×6×3=108)と言う考え方をします。

煩悩はなくせるの?
さて、仏教の修行というのは一言でいうと、煩悩を止めて、断ち切り、なくそうとする修行です。
たくさんの僧侶が修行に臨みます。けれども、煩悩をなくそうとしたけれども、煩悩は消えなかった。断ち切ろうとしても断ち切れなかった。と多くの方も言われています。
道を究めれば極めるほど、自分の未熟さと道の遠さを実感する、というのです。
私たちにとって、今抱えている苦しみをすべて消そうとするのは、とても難しいような気がします。
その証拠に、私たちはいつも、たくさんの悩みを抱えながら生きています。
煩悩は、欲望にとらわれ、物事を正しく判断できなくなるため心が苦しくなるとも言われています。
煩悩の存在を知り、うまく付き合うことができれば、もっと楽に生きられるのかもしれませんね。
例えば、親鸞聖人は、4歳でお父さんを亡くされ、8歳でお母さんを亡くされています。
それでも29歳の時に「煩悩を絶たずとも、苦悩の根本は断ち切られ、自分は幸福である」という言葉を残しました。
例え煩悩があっても、幸せがそよ風のように、静かに心にそよいでいるような状態にもなれると言えるのかもしれません。
